楽譜というものは、おもしろいもので、見た感じ(風景)で音の感じがだいたい分かるものである。出版されている楽譜でも、音符のフォントの違い、音符の大きさ、文字のフォントの違い、手書き風の楽譜などで全然雰囲気が違って出てくる音までが想像できる。吹奏楽のポップスの楽譜では、岩井直溥、真島俊夫の楽譜は手書きのものがイイ。これはサウンドが想像できる。同じ作曲家のものでも、フィナーレなどのソフトを使ってしまうと、雰囲気が違ってしまい、サウンドのイメージが湧かなくなるのである。
この「楽譜の風景」という題名は、故岩城宏之氏が書いた本の題名であるが、この本はとてもおもしろく、2冊も持っている。この本の中で、氏が書いているのは、彼は現代音楽の新作の初演をすることが多いそうだが、練習するときは作曲家の手書きの楽譜を見て練習し、その楽譜から伝わってくるオーラを大切にしているのだそうだ。ところが2度目の演奏になって、その楽譜が出版されていたりすると、そのオーラが楽譜から伝わってこないというようなことを書いていた。よく分かるような気がした。
吹奏楽の場合でも、自分では、コピーしたスコアが嫌いだ。理由は、たいがいの場合、コピーの関係で右のページと左のページが逆になるからである。自分の頭の中にある楽譜の風景は「左のページの○○小節目」という風に覚えているので、それが違ってくるととたんに違和感を感じるのである。
一時期(だいぶ前の話だが)本を読むよりも、スコアを読んでいる(眺めている)方が好きな時期があった。そのページもやはり右左で頭の中に入っている。右脳派なのだろうか。将棋も好きだが、棋譜はなかなか頭には入らない。やはり羽生のようにはなれないか。
さて、明日は何の映画を見に行こうか。
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